Floo Powder

そこは霧の中。
自分の足下すらも霞むような濃い霧に、とてつもない不安を感じた。
ドッドッと音を立てて鼓動する心臓に、ぎこちなく息を吸い込む。
途端、霧が首を締め上げた。
慌てて首に手をやっても触れるのは自分の皮膚だけで。
「ひっ…ぐっ…」
真綿のように柔らかく食い込んでくる感覚。酸素が取り込めず、自分の息をする音は遠く、視界もぼやけていく。



「――――っはっ!!」

突然意識が覚醒して、はっはっと荒い呼吸を繰り返す。
見慣れた天井、カーテン越しの明るい日差し。風が窓を揺らす音。
呼吸がだんだんと落ち着くのにしたがって、五感も活動を始めた。
額だけでなく、全身にじわりと浮かんだ汗が気持ち悪い。べったりと肌にくっついた寝間着が不快で、やや乱暴にボタンを外す。
指が小刻みに震えていたけれど、全部外した時にはすっかり止まっていた。
そういえば、と怠い体を起こしてキャビネットの前に立ってみる。恐る恐るキャビネットを開く。
「嫌な夢……」
鏡に映った首には締められた痕などなかった。




今年の夏も、毎日が暑かった。
窓から差し込む日差しは殺人的で、うっかり日の当たる場所に出ようものなら容赦なくジリジリと照りつけてきた。良家の淑女たるもの、社交の場で小麦色の肌を晒すのは憚られて、今日も私は自分の部屋でゆっくりと過ごすことに決めていた。

、ちょっとお使いに行ってきてくれないかしら」
母様が箱を抱えたしもべ妖精を連れて部屋へとやってきたのは、早めの昼食が終わってすぐのことだった。
「これをモリーに届けて欲しいの」
モリー。何度か聞いたことのあるその人は、母様の学生時代からの友人らしい。
返事をする前にはいと手渡されたのは深緑のベルベット生地の袋。その中身に顔をしかめた。これ、フルーパウダーじゃない。
「自分で行ったら?姿現しすればすぐでしょ?」
すぐさま袋を返したかったが、母様は頑として受け取らない。
「あなたは母様を行方不明にしたいのかしら?」
「私が煙突飛行苦手なの知ってるでしょ」
母様は姿現しの試験には合格しているが、一度失敗して地球の反対側に行ってしまったとかで苦手だ。
けど、私だって煙突飛行は嫌いだ。確かに早いけれど、辿り着くまでの気持ち悪さと言ったら。
しかも昼食後のこのタイミングでなんて絶対に嫌!全力で拒否を示す私に、母様は困ったように頬に手を添えた。
「困ったわねぇ。私は今日のパーティーの用意をしなくちゃならないし……」
そして、ぱっと顔を明るくする。なにか妙案が浮かんだらしい。ルンルンと音がしそうなくらい嬉しそうな顔。目が悪戯っぽく光る。
ちゃん。お使いに行くなら、パーティーに出席しなくてもいいように話してあげましょうか?」
「喜んで行かせて頂きます」
しもべ妖精から荷物を取り上げた私に、母様は満足げに微笑んだ。

「行き先は、”隠れ穴”よ」


煙突飛行