「世界」とは冷たく、痛みを与えるばかりのものである。
冷たい食事、冷たい部屋、冷たい鉄格子、冷たい身体―――そして、冷たい視線。
痛みを与えてくるのは大抵、そんな目をした大人達で、呪詛のように恨み言を吐きながら容赦ない暴力を振るってきた。
どうして自分がこんな目に。
そう思っても、それを聞くと更なる暴力が与えられたから、ただ暴力の嵐が過ぎ去るまで耐えるしかなくて。
結局、暴力の理由が出自にあることを知ったのは、服で隠れる場所全部に赤黒い痣ができた頃だった。
(これはマズイかな…)
カビ臭いベッドと石の壁の間に身体を丸めて蹲り、ドクドクといつもよりも早いスピードで血を循環させる心臓を服の上から押さえる。
身体の末端が氷のように冷たいのに、頭は猛烈に熱く、ひどく朦朧とする。
ぴりっと痛みを訴える頬を手のひらで拭えば、赤い血がべとりと付いた。
(死ぬ、のかな)
ガクガクと震え始めた体を掻き抱いて、指先から這い上がってくる死の感覚にぼんやりと思い至る。
暴力とともに何度も叩きつけられた言葉が耳の奥で轟いて、その度に視界が暗く、狭くなっていく。
「生まれてこなければ良かったのに」
冷たい言葉が心臓を刺し貫いて、世界は闇に堕ちた。
「あ、起きた!」
屈託のない幼い声にぱちくりと目を瞬かせていれば、深い緑の髪をした少年はどこか別の方を見て、「起きたよー!」と大きく声を上げた。
体を刺すような冷たさに目をやれば、体の半分ほどが白いものに埋まっていた。
上体を起こして僅かに手で掬ってみると、それは少しの間に水滴となる。
「雪」
そうだ、この白いものは空気中の埃が冷えて固まったものだ。
だんだんと思考を始めた頭でそれを思い出したと同時に、雪とは何かを知った時に「汚い」と率直な意見を口にしたことを思い出す。
そして、それを聞いた相手が非常につまらなさそうな顔をして、丸く固めた雪を投げつけてきたことも。
「……大丈夫?」
不意に、頭上から気まずさのある声がかけられた。
顔を上げると、先ほどの少年よりも明るい緑色が目に入って、あぁと吐息を零す。
視線を合わせてきた新緑の瞳には、不安や後悔の色が色濃く映されていて、ぎゅうっと胸が締め付けられる。
膝の上で握り締められた掌が白いのは、きっとその手に強い力が込められているから。
「そんな顔しないでよ」
そうっとその手に自分の手を重ねて、覗き込むように真ん丸く見開かれた瞳を見る。
とくとくと、重ねた手のひらから伝わってくる鼓動と温度に、そういえば初めて触れたのだと気づく。
そして、目の前の少女がそのことに驚いているのだと気づくとなぜだか温かな気持ちを抱いて、重ねていただけの手に少し力を込める。
じんわりと伝わってくる熱が温かくて、愛おしくて、ひそりと笑みを零す。
「グミの手、あったかいね」
「……レンが冷たいの」
ごめんね。呟くような謝罪の言葉は白い吐息とともに、冷たい空気に溶け込んでしまった。
だから聞こえなかったふりをして、寒いねなんて言葉を口にする。
音にしてしまうと、それまで意識外にあった寒さが実感を伴って、盛大なクシャミをして体を震わせる。
「そりゃ、それだけ雪まみれなら寒いでしょうよ」
苦笑いを見せた少女がすっくと立ち上がると、それまで手の中にあった温もりが逃げた。
名残惜しく思って宙を掴んでも、手中は空気を握り込むだけで、
「ほら、帰ろう」
力なく開いた手を、温かな手が引っ張る。
何の気負いもなく届けられた言葉が、身体中に熱を与える。
その熱を刻むように、柔らかな手を強く握り返した。
破裂音。
ゆっくりと傾ぐ身体に、呆然と目を見開く。
投げ出された身体を抱きとめたけれど、踏ん張りが効かずにそのまま尻餅をついた。
「……グミ?」
掠れた声。
唇を動かしたのは確かに自分のはずなのに、その声はどこか遠くから聞こえてきた。
細い腰に回した手の平を濡らす温かなものに、ぎこちない動きで腕を上げる。
頭が痛い。
呼吸が乱れる。
掌を染めた鮮やかな赤に、全身のありとあらゆる機能が停止した。
そして思い出すのは、あの冷たい世界。
服を赤く染めていく血は温かい。
その量が増すにつれて、抱きしめた身体はどんどんと冷たくなっていって。
温かな世界が、終わる。