狼聖誕祭
コンコン。
控えめなノックの音に、キーボードを叩く手を止めて、自室のドアを見遣る。
「…姉さん、起きてる?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、ノック同様に控えめなテノールの声。
パソコンデスクの上のデジタル時計を見れば、日付が変わってもうすぐ一時間が経とうとしていた。
こんな時間にどうしたんだろう?
首を傾げつつ、いつまでも返答しないのは悪いと思って、先月新調したばかりの革張りチェアから腰を上げる。
「どうしたの?」
ドアを開くと真っ暗な廊下に蛍光灯の光が伸びて、そこにいたレンを照らした。
「ちょっと話があるんだけど、……入っていい?」
「もちろん。ほら、入って」
快諾して、レンを部屋の中へ招き入れる。
「ありがと。こんな時間にごめんね。でも、どうしても姉さんに言いたいことがあったから」
ベッドに腰掛けたレンが、少し眉尻を下げて申し訳なさそうに上目遣いに見てくる。
何この可愛い子!!!
捨てられた子犬のような表情を前に、私の胸はきゅうぅっと唐突な萌えに締めつけられていた。
ルックス良し、性格良し、運動神経良し、頭良し。
私の一つ下の弟である鏡音レンは、完全無欠、最強にチートな高校3年生。
対する私は何にしても平々凡々な大学生1年目。
小さい頃から何度もレンと比べられたことはあった。
だけど、当の本人が私のことを姉として慕ってくれていたから、全然卑屈になることなく育ってきた。……まあ正直なところ、あまりの格の違いに卑屈になるのも馬鹿らしいと思ったってのもあるんだけど。
とにかく、私とレンはこの鏡音の家で今まで姉弟仲よろしく一緒に暮らしてきた。
そんな弟が珍しく頼み事をしてきたんだから、何が何でも話を聞いてやろうという気持ちになっちゃうよね、普通。
「なに?お姉ちゃんに話してみなさい」
ぎゅっと一回り大きなレンの手を握って、お姉ちゃんぶってみる。
やる気満々な私にレンは目を軽く見開いて、それから愉しそうに笑った。
「あのさ、もう日付変わったじゃんか」
「え、うん。そうだね」
「俺、18歳になったよ」
そう言って、レンはやけに大人びた笑いを浮かべてみせた。
ぱちくり。一つ瞬いて、あっ!と声を上げる。
「誕生日だ!!おめでとう!!!」
そうだった。レポートに追われて忘れていたけど、今日はレンの18歳の誕生日。
「まさか忘れてた?」
「そんなわけないよ!ちゃんとプレゼントもあるし!!」
レンの手を離してデスクに駆け寄り、横に掛けた紙袋から二つの包装袋を取り出す。
「ほら!」
「ん、毎年ありがと」
そう言ってレンに差し出した袋には水色の布地に黄色のラインが入ったリボン。
「ちなみにこっちはリンのね」
顔の横まで持ち上げた袋にはレンとは逆の配色のリボン。
リンはレンと顔の造形が瓜二つの双子で、お姉さん。
少し気は強いけど、それはマイナスどころか寧ろリンの魅力の一つで、素直で友達思いのすごく良い子。
そしてレン同様、私のことを慕ってくれるとても大切な私の妹。
「また同じやつかよ?」
「文句言わないの!可愛い双子が喧嘩しないように、優しいお姉ちゃんの配慮です!」
拗ねたようなレンの声に、私は小学生の時のことを思い出す。
レンとリンは小さい時から些細なことで結構喧嘩はするけど、本当はすごく仲の良い双子だった。
だけど、小学校1年生の誕生日。
レンにヘアゴムを、リンにリボンをプレゼントしたら、それはもう大変な大喧嘩になった。
その時はなんとか宥めたけど、それ以来二人には同じものをあげると心に誓った。
「お、手袋!これ、欲しかったんだ」
顔を輝かせてお洒落なデザインの手袋を眺めるレンに、ふふんと鼻を鳴らす。
「えっへん。双子の欲しがってるものなんて、ばっちりリサーチ済みですよ」
どうだまいったか。
予想通りの反応に愉悦に浸って、腰に手まで当てて威張ってみる。
「うん、毎年凄いと思うよ。……でも、残念ながら今年はリサーチ不足」
「え?」
「俺が欲しいのは別の物だよ」
笑いを含んだ声に目を丸くしてレンを見れば、勝ち誇ったような顔。
なんで?私のリサーチは毎年完璧なのに。
疑問符を頭にレンを見る。
「話、聞いてくれたら分かるよ」
顔にでも出ていたのか、レンがぽんぽんと自分の隣を叩きながらそう言う。
そうだ、話を聞く約束だった。
今すぐ問い詰めたい気持ちもあったけど、それは一旦抑えて大人しくレンの隣に腰を下ろす。
ぎしっと、二人分の体重を受け止めるベッドのスプリングが軋んだ音を立てる。
頭一つ分高いレンの横顔を見上げて、一体どんな話なのだろうと間に流れる沈黙にどきどきして、
「18歳って何ができるようになったかわかる?」
唐突に投げられた問いかけに首を傾げる。
話があるんじゃなかったっけ?そう返したかったけど、じぃっと見てくるレンを前にひとまずは質問に答えるために頭を動かす。
「えーっと……あ、自動車免許!それに献血もだったような…たしか、400ccとかは18歳からよね?」
「そうなんだ、初耳。他には?」
「えー…うーん……」
やけに知りたがるな。
不思議に思いつつも、さらに知識を探って、唐突にあることが脳裏を掠めて、
「エッチな本とかDVDが堂々と買える」
何の躊躇もなく、口にしてしまった。
言ってしまって、猛烈に後悔した。
レンは少し目を瞠って、けれどすぐに可笑しそうに笑った。
からかうような笑い方に、何を口走ったのだと自己嫌悪に陥る。
「あははっ、確かに正解!まあ、高校卒業しなきゃだめだけどね」
くつくつ笑い続けるレンに恥ずかしさがどんどん上がっていく。
「笑いすぎ!」
ぽかぽかと腕や肩を叩いていたら、途中で手首を掴まれた。
「で、他にある?」
笑いを止めたレンが、けれどその声音に愉悦を含んでまた尋ねてくる。
「ない!!」
これ以上笑われてはたまらなくて、強い口調で答えて手を振り解こうとする。
けれど、レンの手は予想以上に強い力がこもっていて、全然緩まない。
「あるよ」
にこりと、上は近所のおば様方から下は幼稚園児まで魅了する甘いマスクが至近距離に微笑む。
いつもなら、瞬間的に弟だということを忘れて見惚れてしまうその笑顔。
だけど、どうしてだろう。ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
「それはね、――結婚だよ」
散々溜めて、レンは至極嬉しそうに笑う。
結婚?
縁遠い単語に思考は数秒停止して、再稼働した直後にあることが思い浮かんだ。
「レン、結婚したい子がいるの!?」
「うん。今日、プロポーズする予定」
あっさりとレンが首を縦に振る。
重要な内容なのにレンの口調は普段と変わらないもので、思わずこっちがフリーズしかけた。
「うっそ、レンって特定の好きな子いたんだ…」
呆然としながら言えば、レンは酷い言われ様だと顔を顰める。
だけど、私は絶対酷いとは思わない。
だってこのモテ男、性格良い癖に女癖がひっじょーーーっに悪いんだもん!!!
神様が依怙贔屓をしたとしか思えないほどに恵まれているレンは、当然ながらモテにモテまくる。
毎日、休み時間の度に呼び出されたり押しかけられたりで告白されてる。
小中高と同じだったから、校内で実際に告白現場を見かけた回数は両手じゃ足りないくらい。
また告白されてる、今日もおモテになってあのチート君はーとか思いつつも、温かい目で見守っていたのだけど。
でも、問題はレンが女の子を家に連れ込んでる現場にもかなりの数遭遇したってこと。
その回数たるや告白現場遭遇の二倍、いや三倍以上と言っても良いくらい。
健全な高校生男子だもん、そういうことに興味あるのはわかってる。でもでも、その女の子が毎回違うってどういうことよ!!!
チートの考えることだもん、何かあるんだろう。
そう思って黙ってたけど、ついに堪えきれなくなって問い詰めてみれば、
「だって埋め合わせだし。何度もやって、期待させる方が可哀想じゃん」
いつもの爽やか王子スマイルでそんなことをのたまいやがりましたよ!!
そんなレンが結婚したい子がいるって!つまり、誰か一人、特定の好きな人ができたということで。
「どんな人!?可愛い?綺麗?」
むくむく湧いてきた興奮を抑えきれずにずいっと詰め寄る。
「今まで会った女の中で一番可愛いし綺麗。肌とか真っ白だし、本人は気にしてるみたいだけどふわふわの癖っ毛も良いし、なにより笑顔が最高。あとは、」
「わ、分かった!もういいよ!」
照れた様子もなくつらつら答えるレンに、こっちが恥ずかしくなってきた。
「で、いつから付き合ってるの?」
慌てて遮って、もう一つ疑問を口にする。
思い返してみると、確か夏休み明けから家の中で女の子を見てないし、そこらへんからなのかなー…。
「付き合ってないよ」
その返答にえ?と首を傾げる。
「付き合ってないの?」
「っていうか、まだ告白もしてない」
「で、でもプロポーズするんだよね?」
「うん」
さらりと言うレンに、ますます首の傾きは大きくなる。
てっきり結婚したい人がいるなんていうから、付き合っているのだと思ったのに。
さっきまで祝福一色だった脳内に、不安がよぎる。
お付き合いの段階をすっ飛ばして結婚って。
まだ高校生のレンの決断を批難する言葉が頭の中に幾つも浮かぶ。
だってレンなんだもん。
この子にプロポーズされたら、大抵の女の子は二つ返事でOKしちゃうに決まってる。
「結婚って、そんなに簡単に決めて良いの?まずはお付き合いして、お互いを知ってからの方がいいんじゃない?」
レンを傷つけないように、でも彼の考えを改めさせようと慎重に言葉を選びながら口を動かす。
けど、レンは大丈夫とただ一言。
「俺は相手のこと、全部知ってるから」
そして、自信満々な声で言う。
その表情はこっちの不安を拭い去るような、自信しか感じさせないもの。
真っ直ぐ向けられる視線は揺らぎのない真剣なもの。
私の拙い言葉じゃ、レンの決断を覆すこと何てできないんだと確信する。
「……本当にその人のこと好きなんだね」
痛いくらいにレンの強い想いを感じて、ぎゅっと胸が締めつけられる。
これほどまでの愛情を向けられるなんて、その人が羨ましいな。ちょっと灼いちゃう。
ちらりと胸の奥で疼いた嫉妬心を消すために大きく息を吸い、頑張れと笑顔で言おうとして、
「ただ、ここで一つ問題が。その人、俺のこと恋愛対象外みたいなんだよねー」
可愛らしく小首を傾げて、レンがとんでもないことを相談してきた。
恋愛対象外って、レンが?女癖悪いのを除けば、欠点なんてないレンが?
どれだけ理想が高いのその子!!!
あまりの衝撃に返答できないでいると、姉さん?とレンに呼ばれる。
「俺、どうしてもその人と結婚したいんだけど。姉さん、どうすれば良いと思う?」
「ど、どうすればって……」
「一つ考えてることはあるんだ」
「どんなの?」
解決策なんて私には全然思いつかなかったから、レンの考えを聞こうと続きを促し、
「既成事実を作る」
今度こそ完全に思考がフリーズした。
キセイジジツ?
それって、つまり?
「そもそも男として意識されてないから、やれば嫌でも意識せざるを得なくなるし」
「いや、あの…」
「意識させちゃえば落とす自信あるし」
「レン、待って」
何?と尋ねてくるレンに、唾を飲み込む。
「お姉ちゃん聞き間違っちゃみたいだから、もう一度聞くね。……なにをするの?」
「だから、既成事実を作るんだよ」
聞き間違いじゃなかったぁあああぁぁぁ!!!
「あぁ、もしかして分からない?既成事実っていうのは、手っ取り早く犯しちゃ」
「アウトおおおおおおおおおおお!!!何を言ってんのあんたはああああああ!!!!!!!」
近所迷惑を気にする余裕もなく、片手でレンの口を押さえて大声で騒ぐ。
はあはあと肩で息をして、驚いた顔のレンにあのさ、と話しかける。
「……そういうのお姉ちゃんはどうかと思うよ」
「どうして?」
心底不思議そうな顔をしないでちょうだい!!
っていうか、その台詞を言いたいのはこっちよ!!
「だって、どれだけアプローチしても気づいてくれない相手だよ?」
「でも、告白もしてないんでしょ!?まずは誠実に気持ちを伝えなよ!もしかしたら、レンが気づいてないだけで、相手もレンのこと気になってるかも」
「それはないよ」
ばっさりと確信を持って一蹴するレンに、私の方が狼狽してしまう。
レンの目があまりに冷たくて怯む。
体の奥から起こる震えに思わず体を離そうとして、
「なんで逃げるの?」
未だ掴まれたままだった手首にぎりっと痛いくらいの力が加わる。
「姉さん」
突然艶を帯びた声に、ぞくぞくと背筋を何かが這い上がってくる。
っていうか、近い。
覗き込んでくる水色の瞳に映った自分が思いの外大きくて、慌てて体を引く。
あ、れ?
思ったよりも勢い良く体が後ろに傾いて、
ぼすんっ
軽い音を立てて、ベッドマットに体が沈む。
直視した蛍光灯の白い光が眩しいとか思ってたら、スプリングが軋む音がして、何かが光を遮断した。
くえすちょん、何が?
あんさー、レンが。
蛍光灯の光を浴びた金髪がきらきら光るのを見ながら、私の頭の中は瞬く間に疑問符が埋めていく。
「なぁ、俺の欲しい物が何か分かった?」
レンの指が、ゆっくりと頬をなぞる。
顎まで至った指にこそばゆさを感じて体を捩ろうとしたけど、全然動かない。
――もしかしてこれは。
真っ直ぐに視線を絡めてくるレンの瞳を見返して、ごくりと唾を飲み込む。
「も、もしかして私……押し倒されてる?」
「今更気づいたの?」
覚悟して言ったというのに、呆れたような視線が返ってきた。
「え、なんで?転んだ?なら、今すぐに退いてほしい、んだ、けど……」
「この状況でそういうこと言うんだ?」
ぴくっとレンの眉が僅かに上がった。
あ、まずい。
普段は温厚なレンが不機嫌になるサインに目敏く気づいて、口を閉じる。
いや、本当は分かってたよ。さっき体を引いた時にレンが私の体を押してきたこと。
しかも、何と無くレンが言う「欲しい物」思いついちゃったし。
けど、絶対に認めたくない。
なのになのに。
「もう良い。姉さん相手に遠回しに言った俺が間違ってた」
レンは一つため息を零すと何かを決意したかのような声でそう言って、吹っ切れたように爽やかに笑う。その笑顔に嫌な予感がして、咄嗟に耳を塞ごうとして、
「俺が欲しいのは、姉さんだよ」
…………う、わぁい。
聞き間違いでも冗談でもないこと、そしてさっきみたいに惚けても無駄だってことを、レンの顔を見て知る。
でも、そんな爆弾発言をはいそうですかと受け入れられるはずもなく、
「俺は姉さんのこと、女として好き、愛してる」
「ま、待って待って。そんな愛の告白はいらない!!!」
尚も爆弾を投下し続けるレン。しかもなんか、だんだんと顔が近づいてきているような。
自由になった両手で胸板を押し返すけど、全くびくとも動かない。
どどどど、どうしよう!!?
再度抵抗しようにも、両手は意図もたやすくレンの左手で頭上に拘束され、足をバタつかせ様にもレンのそれが間に絡んでいて動かせない。
やばいやばいやばいやばい!!!
サイレン、警鐘、赤ランプ。
今まで感じたことのないような危機感に、身体中が危険を訴える。
貞操の危機!!!!!
しかも相手が弟!!!
倫理的にも世間的にもやばいよまずいよ。
なにより私の精神衛生が超絶やばい!!
「れ、レン!今なら間に合う、冗談ですって言って!」
「それこそ冗談。やっと姉さんに意識させたのに、今更やめるわけないだろ」
「い、意識した!!これ以上ないって位に理解した!!ほら、これで目標達成できたでしょ!?」
「意識させるのは、あくまで最低ラインだよ」
くすりと妖艶に微笑んだレンに、さあぁっと血の気が引いていく。
不可避?どの選択しようが同じルートに進んじゃうの?
目の前にいくつもの道があるのに、結局最後には一つの道に至るイメージに愕然とする。しかもその道はやけに目に痛いネオンピンクなんですけど!
「姉さんは鈍感だから、ちゃんと教えないとだめだよね」
がりがり道が削られて、瞬く間に一本道が迫ってくる。
唇をなぞる指に、ぴくっと体が震える。
「な、なにを…?」
答えなんて知りたくない。それなら聞かなければいいのに、黙っていることは今の私には無理だった。
唇をなぞる指を止めて、レンが満面の笑みを見せ、
「俺が男だったってこと。たっぷりと体に思い知らせてあげる」
ゆっくりと私との距離を縮めていって、
「愛してる――――グミ」
私の唇を奪った。