闇より濃い黒
「別れよう」
そう言った私を、アイツは真っ直ぐに見ていた。
そんなアイツを、私は哂いながら見ていた。
記憶の中でもまだ新しい、ほんの数日前の出来事を思い出して、私は唇を噛む。
視線の先にいるのは、きっと誰かに(つまりは私に)見られていることには気づいていない様子の一組の男女。
黒髪の男は、数日前まで私の恋人だった彼は、サトシは、顔に人当たりの良い笑みを浮かべて何事かを話している。
アイツを見ている女の方はといえば、頬を赤く上気させて若干興奮気味にサトシの方へと体を寄せた。
それを気にした様子もなく笑顔を崩さないサトシに苛苛が募る。
そして、そんな感情を抱いた、もうそんな感情を抱く資格のない自分に嫌悪感を持つ。
そんな私の目の先で、女は一層自分の体をサトシに近づけたかと思うと、その腕をサトシの首へと絡ませた。
目の前で行われた動作に、かっと頭に血が上った。
しかしその熱さは、沸き上がった時と同じように一瞬にして冷え切った。
ばちりと音が立ったと思うほどに勢いよく、強く、真っ直ぐに、私とサトシの視線は交わってしまった。
サトシがその黒い瞳を少しだけ大きくする。
しかし私は、サトシの目がどう変化するかを見るよりも早く視線を外し、踵を返して足早にその場を去った。
最初は小走りに、けれど段々と早く、速く。
無駄に呼吸を荒げながら、やっとの思いで自室へと辿り着く。
そして閉じた扉に背を預けてずるずると床に崩れ落ちた。
最初に感じたのは、胸の痛み。
アイツに寄っていく女と、それに対して当たり前にように笑顔を返すサトシ。
その光景が嫌で、アイツに寄る女が憎くて、そう思ってしまう自分を殺したくなって、
だけど、それに気がつかないサトシが嫌いになれなくて。
そうやって徐々に、妬みが、嫉妬が、嫌悪が、殺意が私の中に溜まって溜まって溜まって、私を汚していった。
もうこれ以上汚れたくなくて、私はアイツに別れを告げたのだ。
────なのに。
「カスミ」
扉の開閉する音が聞こえたと思うと、聞き慣れた声が背中に当たった。
窓辺に佇んでいた私は、その声の主が分かっていたから振り返りもしない。
それに対して、勝手に部屋へと入ってきたサトシは、くっと喉で嗤うような声を出した。
その声に思わず反応しかけたけど、何とか抑えて、カーテンを開いた硝子窓の向こうから視線を動かさない。
「お前って馬鹿だよな」
殊更愉しげな声。
鼓膜を震わせた台詞と声に遂に自分を抑えることが出来なくなって、拳を握りしめながら背後を振り返り、
「っ!」
それよりも早く両手首を掴まれて、強い力で硝子窓に押しつけられた。
見上げたところにあるサトシの顔には笑み。ただし、その目は笑っていなかった。
「放して」
「嫌だ」
「放しなさい」
「断る」
私の言葉をサトシは一言で切り捨てる。
そしてその度に私の手首を掴む手に力を込める。
手首と心に走る痛みにサトシを睨みつけ、息を吸う。
「別れるって言ったじゃない!私はっ、あんたなんか大っ嫌いなのよ!!」
肺の中の空気を全部声にして叩きつける。
そうして何秒か何十秒か流れた沈黙の空気を震わせたのは、サトシの押し殺した笑い声。
くつくつと笑うサトシは、驚きと困惑に染まる私の目を見て、ゆっくりと口角を上げる。
「そんな泣きそうな顔で言われても、なあ?」
そう言って唇に触れた熱に、また自分が汚れていくのを感じた。
放してくれないなんて、なんて残酷。
けれど、それならばせめて。
黒く、闇よりも深い黒に。
元の綺麗な色なんて分からないくらいに、汚し尽くして。